昨年、女子バスケ富士通レッドウェーブを引退した篠崎澪選手は、バスケットボール界の神奈川県を代表するエースでした。篠崎選手が金沢総合高校三年生の最後の大会ウィンターカップで、全国優勝すると思っていましたが、試合中の怪我で途中退場してしまいました。わたしは、その試合を観ていました。その後、篠崎選手は松蔭大学に進み富士通に入団し、3×3バスケの日本代表として東京五輪を闘いました。ミニバスからWリーグでま神奈川県一筋でした。引退後、篠崎選手はご自身のこれまでの道のりを一冊の本にしました。本のタイトルは、金沢総合高校時代の恩師・星澤純一先生からの言葉「努力夢元」です。努力は無限なり。努力は夢のはじまりです。
昨年、女子バスケ富士通レッドウェーブを引退した篠崎澪選手は、バスケットボール界の神奈川県を代表するエースでした。篠崎選手が金沢総合高校三年生の最後の大会ウィンターカップで、全国優勝すると思っていましたが、試合中の怪我で途中退場してしまいました。わたしは、その試合を観ていました。その後、篠崎選手は松蔭大学に進み富士通に入団し、3×3バスケの日本代表として東京五輪を闘いました。ミニバスからWリーグでま神奈川県一筋でした。引退後、篠崎選手はご自身のこれまでの道のりを一冊の本にしました。本のタイトルは、金沢総合高校時代の恩師・星澤純一先生からの言葉「努力夢元」です。努力は無限なり。努力は夢のはじまりです。
篠崎選手は、夢を実現された方です。本の199ページを引用します。
夢をつかむための努力をどれだけできたのか、自分自身では評価することはできませんが、その時々で、やるべきことを遂行し、取り組んできた積み重ねが、夢に届いた要因なのではないかと思います。
『努力夢元」篠崎澪 著 P198〜199
本には、人との出会いで夢が明確になり、夢に近づいて行く過程が書かれていました。篠崎選手は、小学5年生のときWリーグで活躍するOGの小畑亜章子選手に会い、Wリーグのバスケ選手になる夢を持ちました。そして、夢が明確だったから、越境してバスケットの強豪校に進学し、全国大会に出場しました。中学時代は田原裕先生と出会います。田原先生の進めで、高校は全国大会出場の常連校・金沢総合高校に進学し、星澤純一先生と出会います。中学・高校では、バスケットの技術もそうですが、”自分がやることを深く考える力”を身につけました。それは、”自分を追い込む力”、”自分に負けない力”となって行きました。
篠崎選手は高校三年生のときは、はじめて挫折を経験します。夏のインターハイ(全国大会)の前に調子が上がらずチームエースナンバー「7番」をあけ渡します。高校生最後の全国大会では怪我で途中退場、そして、夢のWリーグ入りの夢は叶いませんでした。それでも篠崎選手は夢をあきらめていませんでした。切り替えて大学に進学します。大学の全国大会(インカレ)では、チームは日本一に導き、篠崎選手は、MVPと得点王を受賞して、卒業後、念願のWリーグに入団します。もう一つの夢、日本代表になってオリンピックに出ることは、あとちょっとの所で叶いませんでした。それでもまた切り替えて、夢の山を登って行きました。篠崎選手は、今まで経験から、”結果よりも過程”が大事ということがわかっていました。そして、東京オリンピックで新種目のバスケットボール3×3の日本代表となり、念願のオリンピック出場の夢を叶えました。
篠崎選手は、東京オリンピックの一年後に選手を引退しました。9マスノートは使っていなくても、夢を明確な目標に変えて、目標に近く行動を積み重ねれば夢を実現することを篠崎選手から教えてもらいました。エリートに見える選手でも、何度も挫折があり、その都度起き上がり、自分がやるべきことを考え、だれよりも努力していることを知りました。
特に印象に残ったのは、いろいろなタイミングで夢を明確にしてくれる人、家族や恩師、先輩や仲間との出会いがあったことです。これは篠崎選手の謙虚で素直に姿勢にあると感じました。本の中にある星澤先生から書いてもらった「努力夢元」の色紙に込められた思いを、わたしも少し感じることができたような気がします。ありがとうございました。
今日も、「M9notes」に来てくれてありがとうございます。
『努力夢元』は素晴らしい本でした。わがミニバスチームの選手たちにプレゼントします。勝負のお菓子はカルボ(苺)にします。(わが家の最終兵器の勝負飯はカルボナーラ)
6月26日、東京国際フォーラムで書く・聴く・座るの瞑想を体験「一瞬の集中力を手に入れる1日」を開催します。9マスで自己紹介も体験いただきたいと考えています。素晴らしい一日にいたします。必ず人生がますます豊になります。ぜひ、来てください。
中島正雄